Shin-Shiaとしての自叙伝

自分の気持ちを綴ります。

心理療法家と僧侶の統合性

僕がやろうとしていることは、不可能なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

まず、その本から引用すると、

 

 

 

 

 

 

治療者やクライアントに合理的•科学的な批判精神が失われているようなことがあれば、それは心理療法と呼ばれるべきではない。

 

 

 

 

 

つまり、宗教としてみる仏教に合理的•科学的な批判精神がなければ、心理療法は、できない。

 

 

 

 

 

 

という意味なのだろうか?

 

 

 

 

 

 

次に、

 

 

 

 

 

 

また、心理療法は決して信仰の体系ではない。

 

 

 

 

 

 

そこで、信仰の意味を調べてみた。

 

 

 

 

 

 

信仰とは、•••集団性および、共通性を有する。

 

 

 

 

 

 

また、体系とは、一定の原理で組織された知識の統一的全体。となる。

 

 

 

 

 

 

つまり、心理療法とは、集団性を持たず、心理療法仏教との一定の原理はなく、心理療法仏教との知識は、統一的全体ではないということなのか。

 

 

 

 

 

 

僕の理解力では、曖昧にしか、理解できない。

 

 

 

 

 

 

簡単に視点を変えてみる。

 

 

 

 

 

 

仏教は、昔、栄えていた。しかし、現在は、衰退している。これは、事実として、簡単に捉えられる。

 

 

 

 

 

 

著者は、高度経済成長により、個を犠牲にしてきたと言われていたようにも思える。

 

 

 

 

 

 

宗教としての仏教は、集団性を持っているが、現在は、個の時代により、衰退している。と、考えれば、すっきりするようにも思える。

 

 

 

 

 

 

つまり、僕のやろうとしていることは、仏教という集団性の中で所属しつつ、心理療法をして、自分の個を尊重していきたいということなのか?

 

 

 

 

 

 

よく分からなくなってきた。

 

 

 

 

 

 

そんなことは、今の仏教に求められているのだろうか。

 

 

 

 

 

 

そんな、あやふやな考えで、出家はできない。

 

 

 

 

 

 

ただ、現代の流れは、高度経済成長後の迷走期ではないのか?

 

 

 

 

 

 

となると、宗教がまた、栄えることは、ないのかな?

 

 

 

 

 

 

抵抗することしか出来ないのかな?

 

 

 

 

 

 

僕は、組織に所属していることに安心感を覚えている。でも、自分という個を大事にしたいという、相反する思念があるんだな〜と、改めて感じた。

 

 

 

 

 

 

仏教は、集団

 

 

 

 

 

 

心理療法は、個

 

 

 

 

 

 

時代の流れを汲むと、個を大事にして、集団としての知識を補足する。

 

 

 

 

 

 

つまり、仏教の知識を深めつつ、心理療法をしていく形が合うのではないのか。

 

 

 

 

 

 

それが1番なのか。

 

 

 

 

 

 

わからない。

 

 

 

 

 

 

まだ、読み込む必要がある。